信州型事業仕分け

 「信州型事業仕分け」が9月3日(土)・4日(日)・5日(月)の3日間、伊那合庁及び県庁で開催されます。
 9班に分かれ、様々な分野の事業について検討されます。「信州型」と呼ばれていますが、あいかわらず「構想日本」の影がちらつき、今もって首をかしげている者の一人です。
 今年の正月に所感として書き記した文章がありますので、時期外れとは思いますが、ここに掲載いたします

                  世 相 に 想 ふ

                            長野県議会議員 宮 本 衡 司
                                   (昭和45年卒 第22回)

 無駄を排除するという大義のもと『事業仕分け』が大流行(おおはやり)である。国をはじめ地方自治体も財政難の中、もとよりこれを全否定するものではない。もし、未来永劫敵国が侵攻してこないならば、「軍事費」は無駄の最たるものであろう。何もせず国内が犯罪ゼロの健全な社会に保てるならば、治安維持の必要もなく警察官の増員も不要である。また、教育費を増額しても、1年先にその成果が如実に表れるというものでもない。
 世の中のすべてを「費用対効果」あるいは「投資効率」のみで判断したら無駄でないものが一体いくつ残るのであろうか。例えば、都会に住む人に無駄であっても地方で暮らす人々にとっては絶対的に必要なことはある。何の不自由もない都会人の論理で判断されたら、人口の少ない地方には橋も道路も必要ないのである。また、一見無駄と思えるものでも、めぐりめぐって充分社会のお役にたっていることは山ほどある。
 ここは一旦落ち着いて、色々な角度から物事を考えた方が良さそうだ。

 以前は全く無関心であったが、歳を重ねるにつれて本当は大切なのだと思うようになったものが幾つかある。齢60にも満たない若造が何を生意気にと先輩諸兄に言われそうだが、そのひとつが「家」というものの存在であることに気づいた。
 「家」を存続させることは時として困難ではあるが、その意味は極めて大きく、ただ単に若夫婦(子ども)に自分の老後を看てもらうということとは異なると思う。その重要性を理解するとともに、自分がこの世に生を受け、そして育てられ、一人前の人間になるまで、実は目に見えない「家」というものに守られてきたのだと最近思えるようになった。
 しかしながら、「家」あるいは「家庭」、「家族」が崩壊しつつある現実を目の当たりにする出来事が、最近日本において多くみられる。衝撃的なひとつに、高齢者の所在不明事件がある。家族に聞いても、数年前に家を出て行きその後生死不明とのことやら、自宅で死亡したにも関わらず部屋の片隅にそのまま放置され、本人の年金を子供たちが不正に受け取っていた等、およそふつうでは考えられないようなことが、現代社会において実際に起こっていることが明らかになった。
 また、親が子を、子が親を危(あや)めたり、抵抗できない子どもに対してのいじめ、虐待・・・そして前途ある若者が人生に悲観し、自ら命を絶つ自殺等、数えれば枚挙にいとまがないほどである。
 日本はいつからこんなにも家族の絆、社会の絆が薄れる国になってしまったのであろうと驚愕している。

 昨年は参議院議員選挙に始まり、知事選、そして地元飯山市長選、市議選と否応なしに政治との関わりが深まる年となった。世の中の悪いことすべてを政治のせいにする風潮にはいささか疑問の余地はあるが、原因のひとつではあろう。
 そして、今日あるような政治の不安定がまさしく社会の混乱を生み、それが経済の停滞を招き、その結果やがて人心が乱れ、荒んでくるということも事実ではなかろうか。そのことがひいては日本の「家」「家庭」「家族」の崩壊につながっているような気がしてならない。

 私も政治家の端くれとしてこの厳しい現状を認識し、その責任を果たさなければと思いつつ、世間の子ども達がいつしか自分を生み育ててくれた「両親」や「家」というものに対し、その思いを持続し将来に伝えていくことの意味を幾ばくかでも感じとってもらえれば良いと思う今日この頃である。

(長野県飯山北高等学校職員誌 晴耕雨読雪想 第3号 2011年刊掲載)